昔話

 いろいろと思い出す。昔のことばかり。
 ちょうど大学に入学する直前に、初めて2人きりで食事して、何度目かでなぜか好き同士になってしまった。入学祝に連れて行ってもらったお店は、カップルシートで夜景がよく見えた。でも微妙な距離感で食事して、緊張したからか2人ともほとんど食べられなかった。
 福井へ学校の研修に行った彼が、中休みで戻ってきた日に梅田で会ったけど、ただ話すだけだった。お金出すから福井にこない? と電話で懇願されたけど断った。思えばこの頃が一番、普通の恋人同士みたいだった。
 付き合いだして2ヶ月、私の誕生日の日に2人で会った。誕生日プレゼントはなかった。私は彼に別れを告げた。彼は承諾したのに、私は別れ際、また、と言った。これは口から勝手に出た言葉だった。
 次の日の朝、いつもどおり家を6時に出て8時前には大学に着いた。エスカレータに乗っている時に、ガラスごしに見える青空が、その緑の木々とともにあふれ出す陽光が、私にはとてもまぶしく神々しく、何かの啓示のように見えた。それは彼と別れたことによって、新しい輝かしい未来が訪れるという光なのだ、とその時は思った。私は耐えられる。
 でも、その日の夕方になると、私は狭い練習室の中でピアノを前に真っ白だった。世界は真っ白で、自分も真っ白で、鍵盤も真っ白だった。それで気づいたのは、何かを喪失したということだった。けれど別れをきりだしたのは私だ。耐えなければ。
 真っ白な翌々日、夕暮れの西日が射し込む図書館で英単語の訳をしていると、錦鯉色の携帯が鳴った。彼のメールによって光るランプの色は、アズーリ色だった。その色だった。まさに待ち望んでいた色だった。空の色。おとといの朝、私が希望とともに見上げた空の色だった。
 空の色の文面は、もう決まっていた。会いたい、忘れられない。その時私の世界の中で失われていた色が、特に空色がみるみる蘇っていくのが分かった。その日の夕日の燃えるような美しさと切なさを、私は今でも覚えている。
 だからもう私はその時、その幸せを手に入れていた。幸せ。そうか、幸せとは希望や感嘆や勝利などポジティブな感情によってつくられるものではないんだ。それをつくりだすのは、崩壊と執着と挫折、そして絶望。
 私にとってその日のその瞬間が、たぶんこれまでの人生の中でもっとも幸せだったのかもしれない。
 まあそのあと2年ほど、ずっと蟻地獄にはまりつづけたわけだけど。