隠された自分だけの日記

 とても長いので、たたみます。

 以前の仕事にそうとう行き詰まっていた時、ブログを含むSNS系には何も吐き出せなかった。何故か分からなかった。自分の悩みや不安や仕事への恐怖を明確に言葉にして誰かに伝えてしまうと、それが事実だということをさらに認識させられる気がして恐ろしかった。親はもちろん友人や恋人にも、自分が職場でなぜどうして辛いのか、それだけは言えなかった。
 その頃にはほとんどブログも更新せず、自分で日記を書いていた。たまに思いついて文字を打ってUSBに保存して…それでも数は以前のように多くはなかった。長い文章や論理的な文章が書けない、という自覚があったので(おそらく仕事の疲れのせいで)ひとつひとつは短いものだった。本当につらかったことをちゃんと話せたのは、会社のボス(社長)にだけだった。それもだいぶ切羽詰まった時に、泣きながら私は22時、職場からボスに電話をした。たまに人が通るのでできるだけ声を抑えて、でも過呼吸になってしまい電波も弱い場所だった。私はこの電話がいつ切れるか心配だった。
 仕事が辛いと思い出したのは2012年から、新しい職場に入って9ヶ月、新しい部署に配属されてすぐのことだった。そこは担当した若い子たちが全員辞めていくことでみんなから知られていた部署だった。前の部署がとても楽しかったこともあり、私は最初は俄然乗り切る気でいた。明るく前向きな気持ちで頑張ろうと思っていた。ここで頑張れなかったら、ふらふらと揺れ動いてきた私の人生はこれからも変わることはないだろう、と。
 3月、日記に私は「お腹にずっと何かが突き刺さっているような苦しさが毎日続いている」「みんなが私の悪口を言っているような気がする」「でも生きるためには仕方ない。この世は弱肉強食だから」と書いている。この頃の私には仕事を辞めるなんて意志はなかった。何故なら前述したように、ここは私が人生の最後の居場所にしよう、と選んだ世界だった。ここを諦めることは人生を意味のないものにすることと同じように思っていた。
 6月頃から、私は退職を視野にいれている。でもまだ現実ではなかった。この頃にはサザエさん症候群の上をいく「木曜日症候群」にかかっていた。木曜日の夜、明日を終えたらやってくる週末のあとの月曜が怖くてたまらなかった。私はこの頃実家から電車でたった30分という場所にひとり暮らししていて、日曜日はだいたい実家で夕食をとるようにしてて、帰りは両親が車で家まで送ってくれた。最初は私はその車の中でも、普通に母と会話ができていた。でもたぶんこの頃から、私は帰りの車の中で何も言えなくなっていた。帰りたくなかった。暗闇の中で静かに泣いていた。隣に座る母に気づかれないように。そんな私の心中をやがて察したのか母はいつか、仕事がつらいなら辞めたらいい、無理したらあかんよ、と私が何も仕事のことは話さない(むしろいい話しかしたことがなかった)のに突如言われたことがある。私はその時、母に全部話したかった。
 同じように、友人にも恋人にも話したかった。私が悪いのかな?どう思う?と相談したかった。でも話そうとすると無言しか出てこない。どうしても話せなかった。どうしても詳細を話せなかったし、やっと恋人に話せた時には、つらい、と言って泣くことしかできなかった。つらい、と言って過呼吸になって急に部屋の掃除を始めたこともあった。
 仕事がつらくなればなるほど、休日は殻をかぶって遊ぶようになった。感情が昂ってハイテンションになった。その時期を過ぎると、外にも出たくなくなってデートは専ら私のおうちになった。
 具体的に何がつらかったか、というと、まず1番には直属の上司とそりが合わなかったこと。しかもその部署は私とその上司ほぼ2人でテーマを決めたりリサーチをしたり…というコーナーをつくるところだった。その人は30代の男で少し粘着質なところがあって、しかも昼食をとらない人だった。私は最初のうちは上司を気にせず(前任者の進言もあって)同じフロアの他部署担当の人たちと食堂に行ったりしていたけど、途中から罪悪感というかいたたまれなくなって、ダイエットにもなるし、と食事をデスクで軽く済ませるにとどめた。どう粘着質かと言うとうまく言葉では表現できない。でもすごく悪い人、というのではなく自分の機嫌がいい時や私が顕著に弱っていた時などは早く帰らせてくれたり、無理すんなと声かけしてくれたりした。しかし反面、機嫌の悪い時はそこまでやらなくていいんじゃないかってほどの仕事を徹底的に病的なくらい要求したり、そこまでしたら会社全体として不利になるし違法なのに…ってほどの非人道的なことを要求されたりした。職場が特殊なのでうまく説明できない。私が社会人として未熟で、そんな上司をうまくあしらえなかったのも原因だったと思う。向かいのデスクでずっと監視されているようなのも苦痛だった。私はそもそも彼に話しかけるのが怖かった。これを言ったらまたこんな言葉で傷つけられるんじゃないか…そう思うと不本意な結果を言うのがためらわれた。これは言わなくても分かってくれるか…と彼に話しかけることを避けた。
 仕事中、よくトイレで泣いたり、時にはぶらさげた入館証で首を締めた。ドアの荷物かけの部分に吊り下げて、首を吊ろうとしたこともある。それで死ねるわけはなかったが、仕事のできない自分を痛めつけたかった。何度言われても上司の思うような成果を出せない自分を、傷つく自分を弱い人間だ出来ない人間だと痛めつけたかった。だからこんな目に遭っても仕方ないんだ、と自分に思わせようとする心理だったのだと思う。
 それでもその部署について半年ほど経って仕事にも慣れ、少しは彼のあしらい方も慣れ…周りもそんな状況を理解していたわってくれた。優しい先輩がこっそりとその上司の元を離れられる口実を作ってくれて、ゆっくりさせてくれたりもした。
 夏、頻繁に目に異常が出るようになって眼科にかかるようになる。今思うとストレスだったのかな、と思う。秋、仕事のつらいことばかりを吐き出して、こういう風にちゃんとどう何がつらいのか論理立てて説明してこなかった、ただ辛いと泣いてすがっていた、恋人と別れて私は酒と薬を酩酊するまで飲んだ。意識を失って、その夜は長期休暇が明ける夜だった。翌朝目覚めて部屋がえらい有様になっていて、私は母に電話した。しんどいなら無理せず休んで救急車を呼びなさい。重い風邪かなにかだと思っていた(と思う)母は私にそう言った。私は泣いて救急車を呼んだ。その日は休んで、翌日出勤したらその上司はとても優しかった。私の休暇中、ひとりで大変だったようだ。
 その私の自殺未遂騒動は周囲に広まり(私は上司への電話で混乱して母が自殺未遂した、とかワケ分からんことを言ったから、最初は変な形で)上の人たちに呼び出され、私はそんなにここが辛かったのか、これからは何かあったらすぐ相談しろ、と言われた。みんな私に辞めて欲しくないと思っていた。特に上層部は。私は世渡りがヘタで、仕事もちゃんとミスなくできるタイプではなかったけど、人より色々も考えられる人間だったから、そういう特異な部分で彼らは私にここにとどまってほしい、何とか、と思っていたのだと思う。
 仕事がつらかったもう1つの理由は、担当していたコーナーの特性だった。あまり外に出て人と触れ合うことがなくひたすらリサーチ、時には人を騙すようなやり方で派手に見せる、という手法の。私はこのコーナーに全く愛着がもてなかった。これがこのコーナーのあるべき姿だ、と言われても私はこのやり方が1番嫌いだった。
 何かを変える、何かを作り出す…この世界に入った頃、私はそういう人間になりたいと思っていた。でも実際には、自分はこんな上司の冷たい一言や人を騙すようなやり方にいちいち傷ついてしまう弱い人間だと気づいた。そこからひとりで抜け出す勇気も、変える勇気もなかった。ただ温かい家に帰って、ゆっくりと眠りたかった。それができる生活の、幸せなことに気づいた。現に、今までずっと書いてきた小説や創作物の類いを、この仕事についてから私はさっぱり書くことができないでいた。書きたい!と思っていざ文字を書く段になると、私の心が何かを止めていた。枯渇したのかな、と思った。それに無理して書く必要もなかった。私は創作することを辞めた。映像をつくる準備をして、機材を買って、何もつくらなかった。
 逃げ出せる手段はいくらでもあった。しかし新しい場所でまた何か問題が起きた時、今度はもう逃げ出せないし、そこでうまくやれる自信も勇気もなかった。優しかった私の会社のボスは、私が望むなら他のところでの仕事を血眼で探してやる、と言ってくれたが、私にはその時、ボスにそうしてもらうほどのこの仕事への活力と勇気がなかった。
 その頃よく考えていた。私は生きるために、お金のために仕事をしているのに、なぜ死に向かっているのだろう?と。
 私と上司との人間関係が職場全体で問題になり、私は上の命令で彼との仕事での接触を極力避けるように言われ、部署も離された。ありがたい処置だったが、その後も他の上司との間で色々と問題が起こり(彼女も職場では色々とタチの悪い人で評判だった)これまたうまく立ち回ることが苦手な私は、最初は異常なほど好かれていた彼女にすぐに死ぬほど嫌われるハメになった。(同じ案件でも、私から頼むのと違う人から頼むのとで態度が豹変する、精神科に行った方がいいと言われる←これは本当に親切心だったのかも、お説教を2時間ほどぶっ続けでされる、用もないのに一緒に残業させられるetc.)でも彼女からの仕打ちは、それほど苦痛ではなかった。以前の状況がひどかったのもあるし、彼女はそういうキャラで有名だった。それに自殺未遂をした後、彼女は親身になって私の話を聞いてくれた。私は彼女の補佐役をしていて、今思うと他の部署にその時回されていたら退職には至っていなかったかもしれない。実際、もし私が望むなら、と上の人にもそれを打診されていたが、私は明確な意志が示せなかった。今の私なら他の、みんなとワイワイやる部署に行くことを望んだかもしれない。でもその時の私には、またそこで1から仕事を覚えてちゃんとやれる自信がなかった。仕事に対する自信は全て失っていた。自分は何をしてもミスばかりするダメな人間なのだと、前の上司からも今の上司からも言われてそうだと思っていた。彼らの言う通り、私は仕事のできないクズだと。
 辞めるかどうかは、最後の最後まで悩んだ。辞める、やはり頑張る、頑張りたい、頑張らないと自分のこと嫌いになるから、でもつらい、この繰り返しでなかなか判断がつかなかった。でもその女上司との折り合いが徹底的に悪くなって何も仕事を任されなくなってただ座っているだけの日々に嫌気がさした時、辞めることを決意した。それは私にとって、生きることと死ぬことを並べられて生きることを選択したのとまったく同じ意味だった。
 残業時間が長かったおかげで、ハローワークで会社都合にできたのですぐ失業手当も貰え、私は貰える間はゆっくりしようかと思っていた。心を失っていた間にやりたかったこと、行きたかったところに行ってやろうと思った。
 まだ失恋の痛手は消えておらず(死ぬほどひきずるタイプなのだ)元恋人のことを思い出して泣く日々もあった。この気持ちで何か創作したいと思った。しかし退職からふた月経っても、私は何も創作できなかった。その頃の日記には「働いていた間押し殺していた何かが、まだ生き返ってくれないような気がしています」と書いている。高校で鬱病にかかった時以外、こんなに書かないのは初めてだった。私は働いていた間、心が心底疲れていたことを思い知った。だからゆっくりしよう、と思った。もう心に負担をかけることはすまい、と。刺激のない新しい幸せを見つけた気がした。
 今現在まで、ちゃんとまた仕事に就こうという明確な意志はない。今度また同じ状況に陥ったら、あの蟻地獄のような連鎖していく毎日から抜け出せる自信が、ないのだ。
 フランスに来たのは一生ひとりで生きていけるための手に職をつけるためだった。元恋人と別れてから2人と付き合ったものの、元恋人のことを忘れられなくてすぐに別れた。もうまともな恋愛も結婚もできないのかもしれないと思っていた。だから、手に職があれば、色んな場面でそれを活かせてひとつところに集中しない生活ができると思った。でもこの仕事に就きたい! とかそういうわけではなく、大きい目的は留学そのものだった。そもそも周囲の人には留学することを理由に、仕事を辞めたのだった。
 誰のせいでもないけど、その夢も今は消えようとしている。大阪を離れることは、そういう生き方が遠のくということだ。今回渡仏した時から、その不安はあった。新しい土地で私はまた1からやっていけるのか? 前職で仕事に対する自信はなくなったし、むしろ恐怖が増した。それに打ち勝つことができるのは勇気だけ。私は愕然とする。
 もうこれ以上、不安定な生活はつらい。30年間少し人とは違った不安定な生活をしてきて、それは結局自分の性質に由来するものだから仕方ないのだけれど、今の恋人に出会い、最初は彼と一緒になるには大阪を離れなくてはいけないこと、そうすれば自分の望んでいたような仕事に就けないことがつらかった。でも考えを変えたら、もう1人で生きていかなくてもいいということで、絶対に自分で稼がなくてもいいのだ。私だってやりがいのある仕事を見つけて精神安定をはかりたい、自分のキャリアを積み重ねて自信にしたい、創作も再開して色々書いて、経験をつんで…でも今は、まだ考えられない。今はまだ心がどうしても疲れている。もう退職から1年以上経ったのにこのざまは情けないけど、それが現実なのだ。私は新たに人生のキャリアを再開するまでの猶予期間をくれた彼と、彼と巡り会わせてくれた運命に感謝した。でも思いは拮抗している。彼と一緒になるに当たって、乗り越えなくてはいけないたくさんのこと(自分の様々な感情を含む)と、失わなくてはいけない未来と、彼に感謝する思いと、彼を大切に思う気持ちと。
 去年渡仏した時、世界は輝いて見えた。私は本当に仕事を辞めてここに来て良かったと思った。今回渡仏して、感情はまったく別のものになった。繰り返すけど誰が悪いわけでもなく、ただ、何のためにここにいるのか、4月からの約5ヶ月、自問自答する毎日だった。それは前の職場に居た時の心境と似ていた。何の仕事もなく、やろうとしたことも全てやらなくていいと取り上げられて、ただ座っている私は、何のためにここにいるのか? 生きている価値があるんだろうか。

 退職してからこんなにちゃんとあの日々のことを綴ったのは初めてで、長くなったし乱れた文章でした。でもちゃんともっと早い時期に書いておかなきゃいけないことだったな。