冬のはじまり

 弘前もめっきり寒くなりました。羽毛布団を出し、たまにエアコンもつけています。夜は10度をきるようになり、ダウンコートを着ています。春がくるのはのろのろと遅いのに、冬がくるのはあっという間で、最近では16時を過ぎると薄暗くなってしまいます。

 9月末から2週間ほど、大阪に帰省しました。実家で飼っていた犬が死んでしまい、急遽予定を前倒しして長めに滞在しました。

 ずっと調子が悪いのは聞いていたけれど、死んでしまうほど急に体調が悪くなるなんて思っていませんでした。もう少し早めに帰っていれば、生きている犬に少しでも会うことができたのに、と悔やんでいます。命ははかなくて、あっという間に消えてしまうものだということを思い知りました。

 うちの犬は9月23日でちょうど16歳を迎えるはずだったのですが、その2日前に死んでしまいました。最後の1年は目も見えず耳も聞こえずだったのですが、食欲だけは旺盛でよく食べよく飲み、散歩も好きな犬でした。寝てばかりでしたがたまにむせたり、下痢になったりするほかは特に病気もなく生きていました。15歳というのも長生きな方なのですが、もっと長生きできたんじゃないだろうか、もっと苦しまずに逝けたんじゃないだろうか、病院になんかあんまり連れて行かせるんじゃなかったなぁ、とか、こんなにすぐ死んでしまうのならもっとたくさんおかしあげたら良かったなぁとか。色々思うけど、もう実家に帰っても犬はいなくて、世界中どこを探してもあのわんこには会えないんだなというのが1番悲しいです。

 高校時代、私はうつ病になってその時にやってきたのがうちのわんこでした。心療内科の主治医が「動物を飼うことはうつ病の治療に良い」と言ったのもひとつの理由でした。私は高校を辞め、フリーターになり、大学に入り1年下宿、その後また実家に戻り就職して一人暮らしを始めて仕事を辞めフランスに留学、帰国して次は結婚して青森へ。だから犬と暮らした時間は私の母の方が圧倒的に長く、母に看取られて息を引き取ったことはうちのわんこにとっては幸せだったのではないかな、と思います。うちのわんこを誰よりも溺愛していたのは母だし。

 私の人生の中の激動の思春期を共に過ごし、癒し、元気づけてくれたのはうちのわんこでした。個性があってマイペースでひょうひょうとした猫みたいな性格の犬で、いやしんぼだけど明るくて人なつこくて賢くて優しいわんこでした。おじいちゃんになってからほぼ寝てばかりだったけど、私も母もわんこの隣で眠るのが大好きでした。時には大きないびきをかいて気持ち良さそうに寝ているわんこを見ているだけで、みんな幸せな気持ちになりました。

 犬が死んだのが21日の朝、私は飛行機のチケットを取って夕方に実家に着きました。翌日葬儀を終えてわんこの骨と一緒に母と静かな家にたどり着いた時、ひとつの大きな物語が終わったような気がしました。

 多くの人に影響を与える人間が亡くなった時、「ひとつの時代が終わった」と形容されることがあります。うちのわんこは人ではないですが、ひとくくりの時間、おおきなひとかたまりの何かが私の中で、ろうそくの火が吹き消されるように消えたような感覚がありました。

 これが「死」というものなんだな、と私は実感しました。私が何をしても揺るぎないもの、大きな流れがあって、命はその流れから決して逃れられないという事実と、死という事実に付随してくる喪失の悲しみが、人をまた違う世界に連れて行ってくれるものなんだな、と思いました。

 今でも周りの音が消えて静かになると、どこかにうちのわんこがいるような気がします。冬の始まりは静かで物憂げで、そういう時はこたつでぬくぬく眠っているうちのわんこを思い出すことにします。幸せそうに眠っています。